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西新宿 彩旬亭

2025.10.05ブログ

法悦 10月

法 悦  10月 901号

前(さき)に生まれん者は

後(のち)を導き

後(のち)に生まれん者は

前を訪(とぶら)え

連続無窮(れんぞくむぐう)にして

願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す

無辺の生死海(しょうじかい)を

尽くさんがためのゆえなり

親鸞聖人 教行信証 化身土末巻

青色青光
おはようございます。こんにちは。さようなら…毎日交わす挨拶ですが、
挨拶にはいったいどういう意味があるのでしょう?
挨拶の本来の意味は仏教修行僧の問答「一挨一拶」からきています。
師匠と弟子が互いに「挨…おす」「拶…せまる」と、どれほど悟りに近づいたか、
確かめ問答し合うのですが、転じて相手の様子をうかがい、信頼や安心感を
醸成する現代の挨拶となりました。
医学博士・解剖学者の養老孟司氏は、幼い頃から挨拶がどうにも苦手だった
そうです。
自身なぜこんなに挨拶が苦手なんだろう、と疑問を持ち続けておられましたが
、四十歳を過ぎたある時、親族の葬儀からの帰り道、ホームで電車を待って
いると、孟司氏が五歳の時に亡くなった父親の記憶が、まざまざとよみがえった
そうです。
ある朝、病床の父親が、長年飼っていた文鳥を逃がしてやる様子を、不思
議な思いで眺めていたそうです。
そしてその夜、たたき起こされ父親の枕元に連れてこられた孟司少年に、
集まった親戚か家人の誰かから「お父さんに、さよならを言いなさい。」
と言われましたが、言葉に詰まる孟司少年に、父親はにっこり笑いかけ、直後に
血を吐いて亡くなったそうです。
ああ、この事があって「さようならを言わない事が父の死を止める事になる
んじゃないか」と、大切な人の死を受け止められない幼い思いが、挨拶を苦手に
していたのかと気づき、その場で泣き崩れたそうです。
この時初めて父親の死を受け止め、以後普通に挨拶出来るようになった
そうです。

住職日々随想
言葉は言霊(ことだま)、それぞれの言葉には、それぞれ一つのいのちが
宿っています。
普段何気なく使っている言葉にも、それぞれ由来が有り、そこに込められた
願いも有るのです。
「ご機嫌よう」の機嫌は、仏教の「機…衆生の心のありようや、そのはたらき
・嫌…嫌うという意味ではなく、機に応じた仏の教えとお働きという意味」から
きています。
つまり衆生の心の状態に応じる、仏の対機説法を表していましたが、転じて心の
ありようや体調を尋ね、相手の安寧を念ずる挨拶として「ご機嫌よう」となった
ものです。
また「もったいない」も漢字で書くとよくわかるのですが、「勿体無い…体、
つまり姿形は勿(なか)れども無ではない、そこにお陰さまといただける、見え
ざるお働きがある」という心が込められているのです。
今ひとつ「ありがとう」も漢字で書けば「有り難う…有ることが難い、
あり得ないこと」という意味があります。
まさに一期一会、滅多に無いご縁に遇わせて頂きました、という感謝の気持ちの
表現です。
その反対は「当たり前」という心ですが、そこを立場とすれば、親はいて
当たり前、住むところも有って当たり前、食事も出来て当たり前、などなど、
そこに謝念は無く、どれか一つでも満たされなければむしろ不満に思う、そんな
心根が生まれ育ってきます。
ずいぶん以前の事になりますが、富山の小学校で給食の時の「いただきます、
ごちそうさまでした」と子ども達に合掌して言わせる事は、特定の宗教の押し
つけではないのか、という一部保護者の声を受け、ホイッスルを合図にした、
という事が話題になり物議を醸した事がありました。
その後はそういった動きは広がりを見せず、個別の現場で対応するという
事に落ち着いたようです。
しかし、「いただきます」は、ひとつの料理となるまでの、様々なご苦労に
対する感謝、そしてなにより「食材」となるものは全ていのちあったもの、
それを奪い頂かなければ、この身を保ち育てる事の出来ない事実に対する畏怖の
念の表れなのです。
キリスト教の旧約聖書「創世記」には、人間は神から、この世の全てを
支配する権利が与えられていると説かれています。現代の神学では支配という
よりも、世界を守る管理責任者、という意味合いで捉えられているようですが、
それでも仏教の視点から見れば、そこに人間の持つ傲慢さが見て取れます。
仏教にご縁を頂いた者として、言霊を大切に、むしろ言葉を常に生かすように
心がけたい事です。

真宗入門 ーお念仏ー
ご法事の折りやお寺にお参りした折りなど、仏事の時はいつも「お念仏を
称えましょう」と言われます。お念仏について考えてみましょう。
お念仏を呪文のように思われている方もいるかもしれません。しかしお念仏は
呪文ではありません。
お念仏の本来の意味は文字どおり「仏を憶念する事」、そして「仏から念ぜら
れている」私だと知ることです。
善導大師や法然上人など、親鸞聖人が尊ばれた浄土教の祖師方は、ただ口に
「南無阿弥陀仏」と称える「称名念仏」こそが、阿弥陀仏があらゆる衆生
〈いのちあるすべて〉をもれなく救うために選ばれた唯一の行である、と
明らかにされました。
ですから私たちの口から出るお念仏は、私達の能力や善悪によらず、
すべてのものを救おうとする仏さまの大悲心の表れなのです。

法語の味わい
ー法語カレンダー10月号よりー
親鸞さまの お育てで 
今年も集う 報恩講

浄土真宗にご縁を頂く私たちには、三人の親がおられます。生みの親・
育ての親・そしていのちの親です。
「どんなことがあっても、あなたのいのちを虚しく終わらせはしませんよ」と、
無上殊勝の願いを私にかけてくださった阿弥陀さまに遇わせるために、祖先の
方々は「親さま、親さま」と親しんでこられました。
このいのちの親、阿弥陀さまに遇わせるための、親鸞様九十年のご苦労
だったのです。
このお育てに遇えなければ、私の一生も虚しいものとなる事でしょう。
「ふれあるき」という仏教讃歌があります。
♪ 年に一度の報恩講に ハアよおまいり 花やんもこいや 雪子もこい
ちゅうたら おまいりまいりのふれあるき 甘酒できたよケンチャン炊けたよ
みんなみんな おまいりおまいり お正信偈となえて お説教聴聞
ハアよおまいりまいり ♪
報恩講は七百年受け継がれてきた大切なお勤めです。

坊守便り
大阪教区坊守会から広島平和学習に参加させていただき、原爆ドーム・
平和記念公園・平和記念資料館を回らせて頂きました。
第二次世界大戦末期、人類史上初めて使用された核兵器により被爆した
原爆ドームは、当時の姿のまま立ち続け、街の復興の際にも核兵器の惨禍を
伝えるものとして残されました。
現在、原爆慰霊碑、原爆の子など、平和の願いを込めた数々のモニュメント
を含め、平和記念公園として整備され、時代を超えて核兵器廃絶と、世界の
恒久平和の大切さを訴え続けています。
翌日は瀬戸内の大久野島に伺いました。かつてこの島を日本の科学兵器
製造拠点として、毒ガスの製造が行われていました。
戦時中は地図から消された島として、ほとんどの日本人には知られて
いませんでしたが、ここで作られた毒ガスは多くの人を苦しめました。
平和ボランティアの方からは、原爆を落とされた被害の歴史と共に、
毒ガスを使用した加害の歴史も共に心に刻んでください、とお話をいただきました。

十月の行事>

2 日(木) 午前10時半~ ピラティス

18日(土) 午後2時~ 祥月講・同朋の会聞法会
ご講師 唯德寺住職 當麻円純師

30日(木) 午前10時半~ ピラティス

十一月の行事

2 日(日) 午後1時~  おみがき清掃ご奉仕

6 日(木) 午前10時半~ ピラティス

12日(水) 午後2時・夕方5時~ <strong>報恩講</strong>
ご講師 泉大津 南冥寺住職 戸次公正師
20日(木) 午前10時半~ ピラティス

寸 言

情報の訂正は 可能だが

感情の修正は 難しい    荻上 チキ
真宗大谷派 鶴栖山 安泉寺

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